3:怒れば怒るほど分かってもらえない理由
【カウンセラー長谷川】:
怒れば怒るほど
どんなに相手に説明しても
分かってもらえない
時ってあるよね。
【柴犬うみ】:
あたしも怒って
吠えれば吠えるほど、
みんな遠ざかって
いくから分かるなぁ。
こんにちは!(^^)
心理カウンセラー
長谷川 貴士 です。
心理の観点から見ると、
「怒り」の感情は、
実は、相手に自分の気持ちを
しっかりと伝える時に使う感情
なんですね。
そうなんですけど、現実では、
怒れば怒るほど相手に
分かってもらえない時って
多いですよね。
怒れば怒るほど相手に
分かってもらえない時には
何が起きているのか?
そもそも「怒り」の感情って何?
こんな疑問に、心の専門家である、
心理カウンセラーがお答えする記事です。
- 怒ると頭脳明晰になる?
- 悲しみの裏には愛がある?
【ショートコラム①】
「期待」について - 怒ると関係性が壊れるのは
幼児返りしているから?
【ショートコラム②】
「悲しみ」は「執着」に、
「怒り」は過剰な「期待」に変わる - 混じった怒りと純粋な怒り
1:怒ると頭脳明晰になる?
私たちの「怒り」の感情の主な役割は、
自分の身や家族、
大切にしているものを守るために、
私たちを闘える状態にすることです。
私たちは、
(混じりっ気のない純粋な)
「怒り」の感情を感じると、
冷静になり、素早く判断し、
着実に行動できるようになります。
つまり、頭脳明晰で
勇猛果敢になります。
それがどのような状態なのかは、
スポーツ選手が試合で集中力を高めて、
真剣勝負をしている時を
イメージしてもらえると
分かり易いかと思います。
しかし、私達は、上記の状態とは
別の状態についても、
「私は今、怒っている」と
感じることがあります。
腹が立って、腹が立って
仕方がない、止めようがない。
怒りに震えるぐらい全身が
反応してしまっている。
冷静さは失われ、衝動的に
なってしまっていて、
普段ならできないようなひどいこと
が出来てしまうような状態です。
このような怒りは、実は、
純粋な「怒り」の感情ではありません。
私たちに「怒り」の感情が
備わっている理由は、
自分の身や家族、大切なものを
闘って守るためです。
「怒り」で頭に血が昇ってしまって、
冷静さを失ってしまうなら、
判断を誤り、自分や家族を
危険にさらしてしまうことになり、
守ることが出来ません。
私たちに備わっている
「怒り」の感情は、
私たちを冷静にさせ、素早く判断し、
着実に行動できるようにすることで、
自分の身や家族、大切なものを
闘って守れるようにさせます。
私たちから冷静さを奪い、
熱くさせ、衝動的に行動させる
「怒り」の感情は、
本来の「怒り」の感情
ではありません。
それは、純粋な「怒り」の感情ではなく、
「混じった怒り」です。
「悲しみの混じった怒り」です。
2:悲しみの裏には愛がある?
私たちは、
「悲しみの混じった怒り」を
感じている時、
冷静な判断力を失っているので、
ちょっと自暴自棄のような
気分になって、
怒っている今の自分の
気が済むためなら、
自分に損になるようなことでも、
出来てしまいます。
私たちにとって、
「悲しみの混じった怒り」に
囚われてしまうのは困った状態です。
それでは、私たちの
「怒り」の感情に「悲しみ」が
混じってしまうのはなぜでしょう?
それは、私達が、怒りを
向けている対象に
(過剰な)「期待」があったからです。
「こうであって欲しい」
「こうであるべき」
「こうであって当然」
「こうであるのが当たり前」
このような「期待」があると、
その「期待」が裏切られた時に、
「期待」していた想いが、
「悲しみ」と「怒り」に
代わってしまいます。
【ショートコラム①】
「期待」について
上記のような過剰な「期待」は
心身に対して毒になります。
過剰ではない「期待」には
制約や限定性がありません。
過剰ではない「期待」とは
「私にはこれが手に入るはず」の
「これ」がない「期待」です。
「これが手に入るはず」ではなく、
「何かが手に入るとうれしいな」です。
「私にはいつまでに手に入るはず」の
「いつまでに」がない「期待」です。
「いつまでに手に入るはず」ではなく、
「もし、機会があれば(うまくいくなら)
手に入るとうれしいな」です。
これが、過剰な「期待」と
過剰さの無い「期待」の違いです。
「決まったものを」
「期日までに」
このように、手に入れたいものと、
手に入れる期限を自分で決めてしまうのは、
過剰な「期待」となることが多いです。
例えば、「楽しみだな」とか
「(具体的状態や時期を
イメージせずに)
うまくいくといいな」など、
この「期待」には過剰さがありません。
過剰さのない「期待」は、
イメージとしては、「願い」や
「希望」に近いかも知れません。
「(いつまでに)
こうであって欲しい」
「(明日は)こうであるべき」
「(今日は)こうであって当然」
「(今は)こうであるのが当たり前」
このような「期待」は、
大き過ぎる「期待」です。
現実は、私たちの大きすぎる
「期待」通りには
ならないことも多いです。
大きすぎる「期待」は、
現実がその「期待」通りには
ならないことで、
「悲しみ」と「怒り」の感情が
生まれる原因です。
「決まったものを」「期日までに」
手に入れる事を望む、
大き過ぎる「期待」は、
心の平和と安定を壊しがちで、
疲労とトラブルの原因です。
<例>
仕事の場面では、
「決まったものを」「期日までに」
を要求されたり、
要求すること
(=ノルマや目標が課されたり、
課したりすること)
が多いかと思います。
そのため、ストレスとなり、疲れます。
職場では多くの人が苛立っていますね。
( 例ここまで )
この過剰な「期待」を作る原因と
その解消方法は、また記事の後半で
解説させて頂きます。
◆ ◆ ◆
私たちの「期待」が過剰に
大きくなっていた時、
その「期待」が変換される、
「悲しみ」も「怒り」も
過剰に大きなものとなります。
私たちは、大きな
「悲しみが混じった怒り」を、
私たちが「期待」を寄せていた相手に
熱くなり、冷静さが失った、
衝動的な状態でぶつけてしまいます。
私たちは、
「悲しみが混じった怒り」を
ぶつけられると、
納得ができない不当な要求を
されている感じがします。
私たちが、
「悲しみが混じった怒り」からの
言い合いを始めてしまうと、
お互いの言い分(主張)は
平行線で交わることがありません。
これが、怒れば怒るほど
どんなに説明しても分かって
もらえない時がある理由です。
私たちが、
「悲しみが混じった怒り」に駆られて
言い合うことで、お互いの
スレ違いを際立たせてしまいます。
関係性にヒビが入り、
壊してしまいます。
それでは、私達が過剰な「期待」である、
「(いつまでに)
こうであって欲しい」
「(明日は)こうであるべき」
「(今日は)こうであって当然」
「(今は)こうであるのが当たり前」
このような想いを抱いてしまうのは
なぜなのでしょうか?
そして、その過剰な「期待」が
裏切られてしまい、
私たちが「悲しみの混じった怒り」
を感じる時、
冷静さを失ってしまうのは、
どうしてなのでしょう?
私たちには、そうなるだけでの
もっともな理由があります。
「悲しみの混じった怒り」の
裏には、いつでも
大きく深い「愛」が隠れています。
3:怒ると関係性が壊れるのは
幼児返りしているから
「悲しみの混じった怒り」とは
自分の過剰な「期待」が
裏切られたと感じられた時の
「悲しみが混じった怒り」です。
私たちに過剰な「期待」を持たせる
心の裏側には、どんな仕組みが
働いているのでしょうか?
過剰な「期待」が裏切られることで、
冷静ではいられなくなる理由は
なぜなのでしょう?
その仕組みや、理由とは、
私たちの過剰な「期待」の裏には、
大きく深い「愛」が隠れていることです。
「悲しみの混じった怒り」の
混じっている「悲しみ」とは、
私たちの過剰な「期待」の裏にあった
大きく深い「愛」が裏切られたと
感じられた時の「悲しみ」です。
過剰な「期待」の裏にある
大きく深い「愛」とは、
多くの場合、自分の「母親」への
「愛」につながり、重なっています。
子供には母親から「愛」されること
への自然な「期待」が、備わっています。
しかし、私たちが持つ、
母親から「愛」されることへの
自然な「期待」が、子供の頃に
十分には満たされないこともあります。
「私は子供の頃に
お母さんからの関心や「愛」を
自分が期待した通りには
十分にもらうことができなかった」
私たちはこのような
思いを抱えてしまうことがあります。
私たちが持つ、
母親から「愛」されることへの
自然な「期待」が裏切られたと
感じられた時の
「悲しみ」と「怒り」は、
私たちの深層心理の中で
心の傷になります。
その心の傷はケアされ、
癒されるまで、痛みとともに
いつまでも心の中に残ってしまいます。
この、私達が、
「自分は母親に十分に愛されず、
私の期待は
母親に裏切られてしまった」
と感じた時に生まれた、
心の傷の痛みが、
「悲しみの混じった怒り」
を生み出します。
自分が愛している母親に
自分も「愛」されたいと願う
子供らしい自然な「期待」が
裏切られてしまったときの
「悲しみが混じった怒り」が
癒されないままに、
私たちの深層心理に
心の傷として残っていると、
「悲しみ」は「執着」に、
「怒り」は 過剰な「期待」に
変わってしまいます。
【ショートコラム②】
「悲しみ」は「執着」に、
「怒り」は 過剰な「期待」に変わる
「悲しみ」が癒されていないと、
「悲しみ」の感情を想起させる
対象について、いつまでも
忘れることができなくなります。
この状態が「執着」です。
「怒り」が癒されていないと、
その「怒り」を、身近な対象に
ぶつけてしまうようになります。
いわゆる「八つ当たり」や
「弱いものいじめ」です。
心の余裕と寛容さが
失われてしまっている状態です。
過剰な「期待」とは、
「(対象を)自分の思い通りにさせたい」
「(対象が)自分の思い通りで
なければ許さない」
この思いの裏返しです。
自分の思いや都合を他者に強要
しようとする、「八つ当たり」や
「弱いものいじめ」の仲間です。
<例>
ある種の仕事(や職場)は、
「職位」や「業務命令」、
「お金の流れ」によって、
立場の強弱ができることによって、
過剰な期待である
「自分の思い通りにさせたい」
「自分の思い通りでなければ許さない」
この思いを押し付け合うことで、
「八つ当たり」や
「弱いものいじめ」のような状態が
常態化している過酷な状況となり、
行き詰っていることがあります。
仕事(や職場)が成功するためには、
過剰な「期待」を解消することが
その一歩です。
カウンセラーが、仕事(や職場)で
成功するためのサポートを行う時には、
お客様が心に抱えている
「母親」との間にある心の傷を癒す
ためのカウンセリングが提供される
ケースが多くあります。
(例ここまで)
私たちが、「悲しみが混じった怒り」に
とらわれてしまっているとき、
私たちの心は 小さな子供の状態に
戻ってしまっています。
私たちが小さな子供の頃に、
この世にたった一人しかいない
自分のお母さんからの「愛」を
必死に求めていた
悲壮な気分になっています。
私たちの心の中は、
悲しみと表裏一体の「執着」と
怒りと表裏一体の 過剰な「期待」、
「こうあるべき」
「こうするのが当然」
で一杯になってしまいます。
「私が深く愛しているお母さんは
私にも愛を持って関わってくれるべき
なのに、そうしてくれないことは、
許せない!」
このような子供の持つ
「執着」と「期待」の気持ちに
全身が呑み込まれてしまっている状態が、
私たちが「悲しみが混じった怒り」に
とらわれてしまっている状態です。
私たちが、
「悲しみが混じった怒り」に囚われ、
全身が呑み込まれてしまっているとき、
私たちの心は子供時代に戻って、
子供の気分になってしまって
いるので、
大人として人と向き合う時に、
最低限必要なマナーである、
相手への敬意と尊重、
思いやりを失っています。
私たちが、
悲しみと怒りで一杯になって
しまっている子供に戻ってしまい、
大人のマナーを失っていることは、
相手を困惑させます。
「悲しみの混じった怒り」とは、
実は、自分の母親への怒りです。
その、私たちの母親への怒りを
八つ当たりのように向けられた相手は、
私たちがどのような理屈で説得しようとも、
不当で、おかしなことが
起こっている感じがするので、
心から納得することができません。
これが、怒れば怒るほど、
どんなに説明しても、
相手に分かってもらえない時の
裏側にある心理の理由です。
私たちが、
「悲しみの混じった怒り」に
駆られた状態でする主張は、
いつまでも相手と平行線と
なってしまい、交わることがなく、
相手との関係性を壊してしまいます。
< 例 >
Aさん)
「今日の出かける予定だけど、
朝から体調が悪いから、
また今度にして欲しいんだけど。
ごめんね」
Bさん)
「せっかく一生懸命準備をして、
楽しみにしていたのに、ひどすぎる。
絶対に今日行きたい。約束を
守らないなんておかしい」
Aさん)
「約束が守れないのは悪かったけど、
具合が悪いんだから仕方ないじゃない」
Bさん)
「体調管理は自分の責任じゃない。
私を大切に思ってないから、
そんな無責任なことができるんでしょ。
ほんとうに最悪」
Aさん)
「こっちだって好きで体調が悪くなって
いるわけじゃないんだから、少しぐらい
体調不良で苦しんでいる
こっちの心配をしてくれても
いいじゃない」
Bさん)
「そんなのそっちの勝手でしょ。
約束を破っても、全く反省もせずに
えらそうなこと言わないで」
(ここまで)
「悲しみの混じった怒り」で
ぶつかり合うとこんな感じです。
「悲しみ」=「執着」と
「怒り」=「期待(すべき)」とで
お互いを責め合ってしまいます。
4:混じった怒りと純粋な怒り
「悲しみの混じった怒り」ではなく
純粋な「怒り」は相手への尊重や
敬意を欠くことがありません。
頭に血が上ることもなければ、
冷静さを失うこともありません。
純粋な「怒り」は
その熱量の高さとまっすぐさから、
相手に自分の思いを
十分に届けることができます。
実は、「怒り」の感情や、
「怒り」の感情に伴うエネルギーは
私たちが他者とコミュニケーション
する時のの要(かなめ)の力です。
ここまでの解説で、
「純粋な怒り」と
「悲しみが混じった怒り」の
違いが明確になったでしょうか。
「悲しみが混じった怒り」
つまり、頭に血が上り、
冷静を失う怒りは、
不純な「怒り」です。
自分の「悲しみ」を
相手にぶつけようとする時の
「怒り」です。
相手に自分の「期待」通りに
振舞ってもらいたいことへ
「執着」しているときの「怒り」です。
そして、これは高い確率で、
自分のお母さんへの思いが
満たされていないことの「悲しみ」が、
「執着」や過剰な「期待」に
カタチを変えて、
噴出している状態です。
私たちは、自分の母親が
自分の「期待」通りでは
なかったことに対しての「悲しみ」を
「悲しみが混じった怒り」として
自分の母親ではない、
身近な人にぶつけてしまいます。
私たちの「悲しみが混じった怒り」の
感情から生じた、八つ当たりで、
理不尽な要求(=過剰な期待)は
相手を困惑させ、遠ざけます。
相手との関係性を壊してしまいます。
私たちの人生を難しくさせる
「悲しみが混じった怒り」は
私たちが心に抱える、
母親との関係性の中にある
「心の課題」に
注目するカウンセリングで
解消していくことができます。
◆ ◆ ◆
今回は、怒れば怒るほど
どんなに相手に説明しても
分かってもらえなくなる理由である、
「悲しみが混じった怒り」を
中心に解説させて頂きました。
次回は、私達が、相手に自分の
気持ちをしっかりと伝えることができて、
相手とのつながり(絆)を強めること
ができるようになる、
純粋な「怒り」について、
解説させて頂きます。
純粋な「怒り」を使えるようになると、
人間関係は本当に円満になります。
また、次回もどうぞお楽しみに(^^)/
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2:絆を壊す怒り、強める怒り
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